小唄 散るは浮き (歌詞は『江戸小唄』より引用。)
作詞:不昧公、清元お葉(詳細は本文参照。)
作曲:本手→清元お葉、替手→二代目清元斎兵衛
散るは浮き 散らぬは沈む もみぢ葉の かげは高尾か 山川の 水の流れに 月の影
当時齢16の清元お葉によって作曲された、江戸小唄の始祖とも言える曲です。
現代でも唄いつづけられているこの唄のことを深く調べてみたら、逆境に負けない少女の姿が見えてきました。
研究動機-大地震の翌年に-
にっぽんの芸能 川風誘う江戸の粋(初回放送日: 2021年8月13日)で浮世絵写真家の喜千也さんが舞踊「風流船揃」の製作発表と歌川広重の「名所江戸百景」の初版印刷が同じ安政3年に行われていたことに気付いたとおっしゃっていました。
安政3年、安政の大地震の翌年。この年号に聞き覚えがあったため、私は木村菊太郎先生の名著『江戸小唄』を開きました。案の定、すぐに見つけられました。
この年に小唄『散るは浮き』が発表されていたのです。
作者 清元お葉の生い立ち
この唄の製作背景をお伝えする前に、この唄の作者にして江戸小唄の創始者である清元お葉についてお伝えする必要があります。江戸小唄のパイオニアになった背景には彼女の家族関係しているのです。
清元お葉 ・1804~1901年 ・二代目延寿太夫の長女として江戸に生まれる ・祖父:初代清元延寿(=二代目宮本(みやもと)斎宮(いつき)太夫) 清元節の創始者 ・父: 二代目延寿(のちに太兵衛) 様々な記録で美声と評される 本業は鰹節屋 ・母:お磯 長唄を地芸として持ち二代目延寿を支える
祖父 初代清元延寿太夫
宮本節からの独立
お葉の祖父、初代清元延寿は18歳のときから初代宮本斎宮太夫(=延寿斎)の元で宮本節を学び二代目宮本斎宮太夫の名をもらいます。しかし自分が作曲した宮本節が家元豊前太夫直伝として稽古本となり発行される風習に耐えかねた彼は師である延寿斎亡き後、豊後路という宮本節の別派を立てます。
清元の創設と繁栄
しかし創設した流派も同じ宮本節だったため苦情や迫害がありました。そこで彼は1814年(文化11年)江戸市村座で『御摂花吉野拾遺』上演時に清元延寿太夫を名乗り清元節を創設したのです。
延寿の名前と柏葉の紋は亡き師から世襲したものであり、清元の「もと」という韻は宮本節の「もと」から受け継いだものという説もあります。
その後延寿は芝居で新曲を披露し、『帯の文雪空解』『深山桜及兼樹振』等のヒット作を世に出しました。その評判は当時人気だった歌舞伎狂言作者、鶴屋南北(=大南北 代表作『東海道四谷怪談』『於染久松色読売』)と並べられ以下のような狂歌ができました。
都座に 過ぎたるものが 二つある 延寿太夫に 鶴屋南北
多くのファンを獲得した清元節ですが、中でも筋金入りのファンは雲州松江の城主松平治卿(=不昧公)でした。彼は後にこの一家にとってキーパーソンとなる存在です。
初代延寿の息子、巳三郎(後の二代目延寿にしてお葉の父)を自らの手で元服させ栄寿太郎の名と蝉切の紋所の引き出物を与えました。
父 二代目延寿太夫(太兵衛)
初代延寿太夫の死と二代目の襲名
多くの人を魅せた初代延寿でしたが、その一歩で彼の活躍ぶりをよく思わない者もいました。文政8年に元は仲間であったはずの宮本方の人間に刺殺されてしまいます。
残された息子の栄寿太郎は悲しみましたが、翌日には気丈にも中村座に出勤したようです。
人気を着実に獲得していった彼は1827年(文政10年)『月雲花蒔絵の巵』で二代目延寿を襲名します。
初代延寿太二代目延寿の芸と人柄
初代に引けをとらないくらいの芸達者でとりわけ声が良く、美声であった記録が残されております。
その芸は不昧公をはじめとする江戸にいた諸大名にその芸を愛され、大名屋敷にも出入りするほどでした。大名の前では頭の低い人だったようですが、家に帰ると大名屋敷で演奏していることを自慢するような人だったようです。
それでも二代目延寿の稽古は人気で家にはいつも稽古に来る芸者でいっぱいでした。稽古料は相場よりも高く、25銭でした。
後年は「太夫名はいらない。格式ではなく実力で勝負したい。」という理由から太兵衛という芸名を名乗ります。これは彼の父(=お葉の祖父)初代延寿太夫の師匠、宮本節の初代斎宮太夫の本名です。初代延寿が師を尊敬し延寿を名乗ったのと同様に、彼もまた父の師を尊敬していた証拠です。
小六月追記メモ~不昧公はキューピット~
お葉の母お磯は不昧公の屋敷に仕えていたそうです。度々不昧公の屋敷に足を運んでいた二代目延寿とお磯は想いあう仲になりました。二代目延寿が語った清元『お菊幸助』の出来栄えを褒めた不昧公は二代目延寿に褒美に何が欲しいか聞きます。
すると彼はお磯を所望したためという伝説もあります。
不昧公は彼にとって元服に関わってくれた大切な人であり、お得意様であり、キューピットなのです。
清元お葉
受け継がれる芸才
そんな環境に生まれ育ったのが清元お葉でした。二代目延寿と妻お磯の間には長年子宝に恵まれなかったため、待望の子どもでした。彼女は幼いころから芸才を発揮していました。16歳の春には清元の師範を取得しただけでなく、上方唄、江戸長唄、常磐津や新内までできるほどの腕前だったようです。女性のため太夫にはなれなかったことを両親が口惜しがるほどの才能でした。
度重なる試練
芸事を続けるには恵まれた環境で暮らしていたお葉ですが、突然2つの試練が彼女に降りかかります。1855年9月26日、父二代目延寿が芝居の帰りに急逝します。悲しみが癒えきらないうちの同年10月2日、安政の大地震のため江戸は大きな混乱に陥ります。
芝居や稽古ができる状況ではなくないうえ、後継ぎ問題が発生しました。二代目延寿には養子の秀次郎がいましたが、芸才がなく太夫をやめてしまっていたのです。
散るは浮きの創作
結局三代目延寿は二代目延寿の妹まつの夫繁次郎となりました。その後、お葉は父の遺品の手箱の中に不昧公直筆の和歌の短冊を見つけます。
散るは浮き 散らぬは沈む もみぢ葉の 影は高尾の 山川の水
父二代目延寿が不昧公から賜ったこの和歌を見て、これを曲にすることを思いついたのです。こんな暗い時代に不謹慎かもしれないと母お磯に相談しましたが、お磯はお葉の背中を押してやってごらんと笑って言うのでした。
最初は端唄調にしようかと考えていたお葉ですが、次第に新しい作曲方法にするのはどうだろうかと思うようになります。
しかしいざ作曲してみると問題にあたりました。節が足りないのです。そこで最後に「水の流れに月の影」と付け足して本手(=主旋律)ができました。そこへ二代目清元斎兵衛がやってきて替手(=副旋律)を付けました。この替手をお葉は「大変この曲が引き立つ」と評し、散るは浮きが完成しました。
小唄 散るは浮き 意訳(追記 2024.01.04)
【詞】 散るは浮き 散らぬは沈む もみぢ葉の かげは高尾か 山川の 水の流れに 月の影
【訳】 散った紅葉は水面に浮き 枝についたまま(まだ散っていない)紅葉は その影を水の底に落としている これは高尾山の山川の情景 水の流れの中を月光が照らしている
高尾山の秋の情景を唄っていますが、元となった短歌は実際に高尾山で詠まれたのではなく、江戸にあった不昧公の大名屋敷で詠まれたとされています。実際に足を運ばなくてもこれほど美しい短歌を創れる不昧公は想像力が豊かだったのでしょう。
また、お葉が追加した詞(「水の流れに 月の影」)により、唄の情景に空という広い空間が追加されました。元の短歌にある川を引き立たせつつ、秋の季語である月を追加することによって、水面の動き、月の明るさ、季節感を演出するお葉の才能は本当に素敵です。
逆境の中の創作
浮世絵写真家の喜千也さんは、散るは浮きと同年に発表された風流船揃と名所江戸百景について「地震の後の暗い時代、に自分にできることをしようと思って創ったのではないか」とおっしゃっていました。
地震と父の死を同時に経験したお葉も同じ気持ちだったのではないのでしょうか。
そしてこのコロナ禍の中でも同じ気持ちで各分野で創作活動を続ける人々がいらっしゃいます。私の知識や興味を共有することで少しでもそんな方々のお力になればと思い、探求簿を続けていきたいと思いました。
追記(2024.01.04)
悲しいニュースが続く大変な年明けとなってしまいました。
新年に向けてご祝儀曲の紹介を予定していましたが、「今、心に寄り添ってくれる唄はおめでたいご祝儀ではない、『散るは浮き』だ」と思い、この記事の再構成を決めました。
今も辛く、悲しい思いをされている方がいらっしゃると思います。きっと私ができることは少ないです。それでも何かしたいと思い、自分が逆境に立たされたとき思い出すこの唄を紹介することにしました。
私と同じようにお葉さんの強さに勇気づけられる方がいらっしゃったらいいなと思います。
参考文献
・江戸小唄 増補版(演劇出版社)
・ブリタニカ小項目電子辞書版
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