【文化探求】吉原通い 舟ルート

吉原、深川、両国、浜町川岸等の数々の名所を繋ぐ隅田川は多くの伝統芸能の創作の舞台となりました。今回はそんな隅田川から吉原へ舟で行くときのルートを探求していきます。

當時、江戸の人たちにとつて、隅田川およびその界隈が、どんなにいゝ雄山の場所であつたかは、小唄によつても知ることができるようです。(中略)八百餘りの小唄の中から、隅田川およびその周邊に關連した小唄をひろつてみますと、(中略)なんと六十近くありますから、ほんとうはもつとたくさんあるのでしょう。

『随筆 小唄おぼえ書き』(金澤書房より)
表記方法について(追記 2024.07.19)

環境依存文字回避のため、この記事では「吉原」と表記します。しかし、可能な場合は旧字体での表記の方がベターです。(図参照)

表記方法

吉原通いの手段

そもそも江戸っ子はどのように吉原へ通っていたのでしょうか。
今回確認できた吉原通いの手段は以下の通りです。

・舟で隅田川を遡る
・駕籠に乗る(※)
・馬に乗って駒形から日本堤に出る(※)
・歩いていく

※寛文年間に町中での馬と駕籠の利用を禁止したため、一時は馬・駕籠の利用者はなくなりましたが、元禄時代になるとこの規制も緩んだようです。
江戸八景 吉原の夜雨 国立国会図書館デジタルコレクションより

雨の中駕籠と徒歩で吉原へ向かう人々。
吉原とは逆方向へ歩く人々もいます。

舟通いが創作で重宝される理由

上述した4つの吉原通いの方法で特に粋であるとされたのが、駕籠と舟でした。

江戸っ子は、ただ性行為だけを求める遊び方を野暮とし、吉原へ行く道中や花魁を待つ時間さえも楽しむことを粋としました。お金がかかりますが見栄を張れる駕籠や舟は上客の嗜みなのです。実際に駕籠や舟で吉原へ通うのは一部のお金持ちだけで、多くの庶民は歩いて吉原へ行くのでした。

駕籠の中には吉原駕籠と呼ばれる吉原通い専用の小窓がない駕籠もあり、雨風を凌げて人とも顔合わせすることがないため重宝されました。

舟はそういった実用性に関して駕籠に劣るかもしれません。しかし舟通いのルート上には隅田川の数々の名所がありました。隅田界隈の名所を眺めながら顔馴染みの花魁を想って通えば千里も一里。そんな風情が伝統芸能創作にぴったりだったのではないでしょうか。

千里も一里…恋しい人のところに行くときは、遠い距離も非常に短く感じられて苦にならないこと。

『小唄ことばの手引』(株式会社 東京邦楽出版社より)
小六月追記メモ~惚れて通えば千里も一里、広い田圃も一またぎ~

「惚れて通えば千里も一里、広い田圃も一またぎ」という歌があったそうです。

これは浅草観音裏から田圃の中を行くことを暗示しています。このルートは吉原への最短ルートで、馬に乗っていく人が多かったため「馬道」と言われ、現在でも地名としてその名を残してます。

舟で通う吉原への道

それでは舟通いルートにはどんな名所があったのか、順に見ていきたいと思います。

柳橋から小舟をいそがせて(柳橋)

吉原や深川へ舟で行く人も、涼み船で遊びたい人も、まずは神田川が隅田川に合流する柳橋の船宿で舟に乗りました。柳橋は隅田川舟遊びの拠点として人気を博した場所です。                                        

吉原へ行く場合は(ちょ)()舟や屋根舟に乗ります。小唄等の創作でおなじみなのは猪牙舟です。その名の通り猪の牙のような形状をした舟で、速力が早く磯漁や小荷運送でも重宝された実用性が高い舟です。通常は猪牙舟1隻につき船頭1名、客1~2名が定員となるため、大人数で行くときは屋根船と呼ばれる屋根付きの庶民的な遊山舟を利用しました。

吉原通いに使用される猪牙舟は山谷堀を目指すことから山谷舟とも呼ばれたそうです。

浅草御蔵と首尾の松

舟で吉原を目指して隅田川を遡るとまず左手に見えてくるのが浅草御蔵です。

ここは年貢米や俸禄米の管理など米穀の納出を一手に担った蔵で、毎年40万石ほどの米穀を取り扱っていました。浅草御蔵には堀が8つ堀がありました。一番川上にあるのが一番堀、その一つ川下側の堀が二番堀と続き八番堀まであります。その中の四番堀と五番堀の間にあったのが江戸十八名松の一つでもある首尾の松です。

名前の由来は少し曖昧です。三代目将軍家光が治世をしていた頃、隅田川が氾濫した際に阿部豊後守忠秋が「馬を川へ入れて首尾よく人命救助をしたこと」もしくは「首尾の松から対岸まで馬で乗り切り首尾よく家光に咎められずに済んだこと」といった説があります。肝心の理由の部分が曖昧ですが、阿部豊後守忠秋が一枚嚙んでいることは間違いないようですね。

吉原へ向かう客は今日の首尾を願って、また吉原から帰る客は上首尾を振り返ってこの松を眺めたそうです。

名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩河岸 国立国会図書館デジタルコレクションより

左上に描かれているのが首尾の松です。

待乳しずんで(待乳山聖天)

首尾の松を通りすぎ、さらに上流を目指します。駒形堂を左手に見て、並木、そして幡随院長兵衛でおなじみの花川戸を通過すると待乳山が見えてきます。

聖天様を祀っているため周りは聖天町と呼ばれています。商売繁盛、夫婦和合の御利益があり、願い事の際には二股大根をお供えしたそうです。

待乳山が見えたら舟の終着点、山谷堀に入るために左折する準備をします。
待乳山が見えることで、吉原に近づいている実感を持つことができ期待に胸が膨らんだことでしょう。

山谷堀からちょいとあがり (山谷堀)

今戸橋を渡って山谷堀に入るとここで舟を降ります。今戸橋は上を渡る人より下をくぐる人が多かったそうです。それくらい吉原通いの客で賑わっていたのですね。

山谷堀は船宿が多くあり、吉原との中継地の役割をする中宿として機能していました。ここでは宴席を開いたり、預けておいた豪華な着物に着替えたり、客となじみの深い遊女との取次ぎを行ってもらったり、吉原に向かうときに女将や若い者が提灯をさげて客を遊女屋(妓楼)まで送ってもらえるといったサービスがありました。

なかでも僧侶はここで羽織姿になり、同じく剃髪をしているものが多い医者に擬態したようです。 もちろんこのようなサービスを受けるためにはたくさんお金を出す必要があります。

名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景 国立国会図書館デジタルコレクションより

奥に見える小高く盛り上がっている場所が待乳山聖天、そしてその右側が山谷堀の河口です。

小六月追記メモ~姿を変えた山谷堀~(追記 2024.07.21)

現在、山谷堀は暗渠化されて水路は見えない状態ですが、その跡には山谷堀公園があります。民芸品を模したオブジェ、学びになるパネルがあり、春には桜とスカイツリーが一緒に見えます。
姿は変われど、風光明媚な場所であることは変わりません。

長い土手をば通わんせ (日本提、土手八丁)

舟を降りた客は日本提(にほんつづみ)と呼ばれる場所に着きます。聖天町と三ノ輪を結ぶ一本の土手道を日本提といいますが、どこから行くとしても日本提を通らなければ吉原にたどり着けないことから、日本提は吉原通いの道として知られるようになりました。

舟通いの客が通るのは、日本提の中でも聖天町から吉原の入口である衣紋坂までの道を土手八丁です。これは聖天町から衣紋坂までの距離が八丁あったためこのように呼ばれるようになりました。吉原通いの客をターゲットにした茶屋や屋台が並び、とても賑わっていました。

下りる衣紋坂(見返り柳、衣紋坂・五十間道)

土手八丁の終着地付近に植えられた一本の柳が見えます。これが見返り柳です。京都島原遊郭の出口の柳を模して植えたとされており、吉原から帰る客が名残惜しんでこの柳のあたりで見返ることから名づけられたそうです。

そこを左折すると緩やかな下り坂の道が見えます。ここが五十間道(=衣紋坂)です。

名前の由来
・五十間道…この道が50間(約90メートル)あるため
・衣文坂…吉原から帰る客がここで襟を正して帰るため

この道は外から吉原を隠すようにカーブしています。わざわざ道を曲げた理由は、風紀上の問題、将軍が近くで鷹狩りをするためそのとき吉原が目に入らないように等所説あるようです。

小六月追記メモ~時を超える柳~(追記 2024.07.21)

見返り柳は震災や戦災などの困難に見舞われました。しかし数代に渡り植え替えられ、現在もその姿を見ることができます。

吉原を愛する方々の影が見えるようで素敵です。

小六月追記メモ~江戸の名残の曲道~(追記 2024.07.21)

五十間道(=衣文坂)のカーブは今でも残っています。
この写真の奥に見える信号が吉原大門の信号です。吉原大門の交差点は土手通りと五十間道が交差する位置にありますが、かつて大門があった場所はここではありません。
五十間道を渡り切った場所に大門があったとされています。(下図参照)

大門口を眺むれば(大門)

五十間道のカーブを曲がれば、いよいよ吉原の入口である大門おおもんが見えます。この門は夜明けと共に開門し、夜四ツ(午後十時頃)に閉門します。それ以外の時間に出入りしたい場合は脇にある袖門を使ったそうです。

\江戸時代の時間に関する記事はこちら/

通い慣れたる仲の町(仲の町)

大門をくぐればいよいよ吉原のメインストリート、仲の町にたどり着きます。ここでは四季折々の催事を行う広場となっていました。中でも人気だった催事は吉原の外から桜を移植し、植木棚にずらりと並べて桜並木を再現する春の行事でした。なんと満開は野暮とされるため、満開を前にして次の行事のために桜は抜かれていたそうです。そのため毎年毎年新しい桜が植えられては抜かれているのです。

また花魁道中が繰り広げられるのも仲の町です。

小六月追記メモ~吉原の蕎麦屋さん~(追記 2024.07.21)

吉原の中にある蕎麦屋さんがとてもおいしかったので、ご紹介させてください!
屋号は生蕎麦 梅月です。こちらの写真はむじなという蕎麦なのですが、油揚げと天かすがのっています。たぬきときつねの味が同時に楽しめる素敵なメニューです。

紫沙お姐さんと一緒にこちらのお店でむじなをいただきました。おいしい蕎麦を食べながら、憧れのお姐さんと一緒に過ごせた時間はとても思い出深く、今思い出しても幸せな気持ちになります。

まとめ

以上が舟で通って仲の町にたどり着くまでの道のりです。いかがでしたでしょうか。様々な唄の中に出てくる地名のことがわかって今回のまとめは私自身とても勉強になりました。

どのあたりのが舞台になっているのか、ここにいるということはどのような状況にあるのか考えて演奏することによって曲の完成度が左右されるのかもしれません。

また吉原については興味深い資料も書ききれていないこともたくさんあります。また折を見て別の視点から吉原を分析していきたいと思っております。

吉原さんぽのすゝめ(追記 2024.07.21)

今年の春、吉原に実際に行って見たことや得られた知識を元に追記しました。

吉原の文化や観光資源を守ろうと活動されているホテル 座 みかさの不破さんにお目にかかり、素敵な観光案内をいただいて、楽しくお散歩をしました。

吉原の観光案内
ホテル 座 みかさの不破さんが制作された観光案内

ここには吉原の文化や見どころがたくさん書いてありました。不破さんや地元の方の想いが伝わる素敵な資料です。吉原に行かれるかたは是非ホテル 座 みかさに寄って観光案内を受け取ってください。

素敵なお話しと観光案内くださった不破さん、不破さんにお繋ぎくださった浅草見番 紫沙お姐さん、ありがとうございました。

スペシャルサンクス

ホテル 座 みかさ

浅草見番 紫沙お姐さん

参考文献

・江戸切絵図 今昔散歩道(株式会社 新人物往来社)
・江戸の色町 遊女と吉原の歴史(株式会社 カンゼン)
・広辞苑 第六版
・小唄ことばの手引(株式会社 東京邦楽出版社)
・古地図で大江戸おさんぽマップ(株式会社 実業之日本社)
・随筆 小唄おぼえ書き(金澤書房)
・スーパービジュアル 江戸300年の暮らし大全(株式会社 PHPエディターズ・グループ)
・図説浮世絵に見る江戸吉原(河出書房新社)
・別冊歴史読本 第60号 江戸切絵図の世界(株式会社 新人物往来社)
・よみがえる江戸(株式会社 双葉社)
・歴史REAL 図解 大江戸八百八町(株式会社 洋泉社)

コメント