【作品探求】岡崎五万石

岡崎五万石(歌詞は五万石保存会発行CD歌詞カードより引用)
作詞作曲:不詳

五万石でも岡崎さまは アーヨイコノシャンセ
お城下まで舟がつく ションガイナ
アーヤレコノ 舟がつく
お城下まで舟がつく ションガイナ
アーヨイヨーイヨイコノシャンセ
マダマダハヤソー

矢作上ればお城が見ゆるアーヨイコノシャンセ
葦の葉越しの松の間に ションガイナ
アーヤレコノ 松の間に
葦の葉越しの松の間に ションガイナ
アーヨイヨーイヨイコノシャンセ
マダマダハヤソー

めでためでたの岡崎さまは アーヨイコノシャンセ
枝も栄えて葉も茂る ションガイナ
アーヤレコノ 葉も茂る
枝も栄えて葉も茂る オメデタヤ
アーヨイヨーイヨイコノシャンセ
マダマダハヤソー

岡崎五万石と地域の保護活動に関する記事を書いた際、岡崎五万石に関して多くの疑問が残ったため、より深堀をしてみました。

↓前回の記事はこちら

岡崎五万石とは

岡崎五万石は五万石とも言われ、その分類は民謡とも座敷唄ともされています。そしてその歴史も謎に包まれており、はっきりとした起源や発祥した場所は明らかにされていません。
一方曲自体の評価は高く「品格の高さと味わいの深さがある民謡」「城下町らしい風情を静かに表現した格調高いお座敷唄」など、気品を感じさせる曲として評価されています。

岡崎五万石の情景

岡崎五万石の歌詞の情景を説明するためには、まずは岡崎という土地を理解していただく必要があります。

家康公誕生の地である岡崎は、陸路は東海道、海路は矢作川と交通の要所でした。なかでも岡崎城付近は矢作川と菅生川(現 乙川)が合流する要害となっていました。岡崎城から徒歩3,4分の場所まで御用船を着けることができたという事実を誇りに思っていたことが1番の歌詞の内容からも伺えます。

江戸時代には徳川家が信頼を置く譜代大名たちが岡崎城の城主を務め外様大名を抑えました。

そのため禄高はわずか五万石でも格式は高く、城下町は繁栄していました。

歌詞の変遷と三河武士の誇り

冒頭で記述した歌詞が近年の岡崎五万石のスタンダードとなっている歌詞ですが、1980年代の資料を見ると岡崎五万石は最長7番まで存在していました。
どのような経緯で現在のような3番までの歌詞になったかは不明ですが、岡崎に対する誇りは現在の歌詞より古い歌詞の方がより顕著に現れています。

○旧歌詞 3番
 花は桜木 人なら武士よ ア ヨイコノサンセー
 武士と言やれば 三河武士 ションガイナー
 アヤレコノ 三河武士
 武士と言やれば 三河武士 ションガイナー
 アヨーイヨーイ ヨイコノサンセ
 マダマダハヤソウ

○旧歌詞 4番
 安く見やんな 岡崎生まれ	ア ヨイコノサンセー
 天下取ったわ 三河武士 ションガイナー
 アヤレコノ 三河武士
 天下取ったわ 三河武士 ションガイナー
 アヨーイヨーイ ヨイコノサンセ
 マダマダハヤソウ

日本民謡大鑑 上巻(1985.05.19)より
旧歌詞は資料によって差異がありますが、上記2つの歌詞はいくつかの資料で確認できました。

起源

前述のとおり岡崎五万石の起源は明確ではありません。しかし大きく分けて2つの説がたてられています。

 ①矢作川を上り下りする船頭たちの舟唄
 ②江戸で座敷唄として誕生・流行し、地元岡崎に逆輸入された

ここでは①を舟唄説、②を逆輸入説として各説の考え方を紹介します。

舟唄説

この唄の囃子言葉である「ヨーイコノシャンセ」や「ションガイナ」は全国の海で働く者の祝い唄の中に盛り込まれることが多い歌詞です。現に岡崎五万石がご祝儀としておめでたい席で唄われています。そのため、ヨイコノ木遣りもしくは舟曳き木遣りが元となっているのではないかと考えられています。歌詞の内容としてもいかにも船頭さんの舟唄といった内容です。しかしエビデンスで見てみると、逆輸入説の方が有力とも言えます。

逆輸入説

江戸で誕生したという逆輸入説の中でも現在確認できるだけで2つの説があります。

①三代家光のときに三河万歳が江戸に持ち込まれ、後に唄が木遣りと合体し、江戸小唄として岡崎五万石が誕生・流行した
②囃子言葉と江戸木遣りが融合して座敷唄になり、江戸端唄として誕生・流行した

この場合、座敷唄として捉えられているようなので小唄と端唄は大きな差は出ないと思われます。小唄と端唄の詳細な違いは以下の記事をご参照ください。

これだけ岡崎のことを誇った内容の唄でありながら、岡崎の名士 田口城一氏の調査により古くから地元で唄い継がれてきたという形跡がないということがわかっています。ではどの土地唄い継がれていた形跡があるのか、それは意外にも遊里だったのです。

遊里と岡崎五万石

岡崎では一時期岡崎五万石が唄われなくなった時代があったと言います。それでも吉原などの遊里では岡崎五万石が座敷唄として唄われていました。唄を継承したというだけでも歴史的な功績は大きいですが、中でも最も大きな功績を作った人物が大正初期の吉原の芸妓 〆治です。彼女がニッポノホン・レコードからリリースしたレコードである、”端唄”岡崎五万石がとても人気になったのです。そして再度地元でも唄われるようになったのです。

吉原関連の記事はこちら

進化する岡崎五万石

〆治のレコードリリース後は岡崎の芸妓である中村くになど多くの人によって唄われた形跡が残っています。そして1927年には当時人気の作詞作曲コンビであった中山晋平と野口雨情によって岡崎五万石の歌詞を組み込んだ新しい民謡が生まれました。その曲は「新五万石」や「岡崎小唄」と呼ばれ、一時期は岡崎五万石よりも人気を得ていたと言われています。

そして戦後には婦人会が中心となって地元での岡崎五万石保護活動が始まり、現在では様々な団体が岡崎五万石を保護しています。

↑新五万石(岡崎小唄)は岡崎五万石と共にCDやレコードとしてリリースされています。
(画像左側がレコード、右側がCD)

岡崎における岡崎五万石保護活動の記事はこちら

まとめ

岡崎五万石は地元で生まれて唄い継がれてきたものだと思っていましたが、起源がはっきりしないことや遊里との繋がりがあることを知り、私自身とても勉強になりました。岡崎五万石の分類が民謡だったり座敷唄だったりとはっきりせず、疑問に思っていましたが、遊里で唄われた歴史があることを加味すれば納得です。

私事ですが、岡崎五万石は今は亡き2代目家元に稽古をつけてもらい、初舞台で唄った大事な曲です。三河武士の誇りを唄ったこの曲をこれからも大切に唄っていきたいなと思います。

参考文献

・江戸小唄 増補版(演劇出版社)
・邦楽百科事典 雅楽から民謡まで(株式会社 音楽之友社)
・日本民謡大鑑 上巻(西田書店)
・日本民謡舞踊銘鑑(日本伝承芸能文化振興会)
・日本民謡辞典(株式会社 全音楽譜出版社)

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