【書籍紹介】小唄ことばの手引

『小唄ことばの手引』は小唄の歌詞として扱われる言葉を解説する辞書です。古本屋さんのオンラインストアで見つけたとき、とても嬉しくてすぐに購入を決断しました。しかし、同時に疑問も芽生えていました。なぜこのようなマニアックな辞書が制作されたのか、作者はどのような想いでこの本を作ったのか。

出版年と制作者のまえがきから当時の状況や著書への想いがわかったので、まとめました。

制作者の経歴

本書は吉田病院 院長の吉田忠が編集し、小唄愛好家の土屋健が校閲して作られた本です。両人について詳しく調査してみました。

土屋健

閑吟会、火星会など小唄関連の愛好会にて同人として活躍し、小唄作詞・作曲塚に名を刻まれた小唄人です。また文才を買われて製薬会社の広告部長として引き抜かれるほどの健筆の持ち主でもあります。その才能は小唄にも還元され、小唄関連エッセーの制作や江戸小唄新聞での連載の実績もあります。

16歳の頃小唄と出会い、後に作詞作曲も行うようになりました。

○土屋健 小唄愛好家としての実績
・閑吟会、火星会など小唄関連の愛好会にて同人として活躍
・小唄の作詞も行う
・1954年(昭和29年) 小唄関連エッセー『随筆 小唄おぼえ書き』出版
・1958年(昭和33年) 江戸小唄社の顧問になる
・1968年(昭和43年)1月~ 「江戸小唄新聞」にて匿名で健筆を振るう

小唄の作詞は百五十章を数えるが、広い襟度をもった温厚な性格を反映して抒情とユーモアをたたえ、軽妙洒脱にして暖かみのある佳作・秀作が多く、絶えず現代小唄の新風を送っていた。

『昭和小唄 その三』木村菊太郎

吉田忠

吉田病院の院長で、小唄の研究を行っていた人です。小唄への情熱は土屋健も大きく評価していました。

小唄に関しては専門家以上に詳しくよく研究しておられ、自ら三味線の演奏も採譜もなさるというのだから、理屈だけの小唄人ではない。

『小唄ことばの手引』 びんのほつれ 土屋健

院長という責任ある仕事をこなしつつ、専門用語辞書の編集という大きな創作を成した人ですから、かなりバイタリティがある方なのでしょう。

本の内容

前述のとおり、この本は小唄の歌詞として扱われる言葉を解説する辞書なので、小唄の歌詞として扱われる言葉が50音順に並んでいます。専門用語辞書らしく、中にはマニアックな言葉も掲載されています。

千里も一理…恋しい人の所に行くときは、遠い距離も非常に短く感じられて苦にならない意。

『小唄ことばの手引』

編集するうえで参考にした本は60冊を超えます。参考文献は主に当時出版されていた小唄や邦楽関連の名著、邦楽関連エッセー、さらには『広辞苑』とといった定番の辞典から『江戸東京風俗語辞典』などのマニアックな辞典も含まれます。

出版された経緯

この本を発見したとき、制作経緯が一番気になっていましたが、その答えはまえがきに表記されていました。

事の発端は吉田忠と土屋健の共通の体験でした。

ある小唄のお稽古場を訪ねた時に、若い女のお弟子さんが次の唄を習っていた。

〽萩はいじらし、わが身はいとし、様はつれなし、アレ秋の風、ほんにやるせがないわいな。

そしてそのお弟子さんは「様」って何んのことですか、と師匠に質問していた。それで私はふと考えた。明治は遠くなったというが、正にその通りであると。

今の若い人には意味のむずかしい古語や俗語が小唄の中には多いので、わからないのも無理はない。

『小唄ことばの手引』 まえことば 吉田 忠

「びんのほつれは枕のとがよ」と唄ったら、「びん」とはどうゆう意味か、と、まじめに質問されて驚いたという嘘のような話を、平山芦江さんから聞いたことがあった。

戦後、がらっと変わってしまった御時世の中にあって、遠くなった明治どころか、三百年来の江戸小唄に意味の判りかねる字句がたくさん出て来ることは当然である。

『小唄ことばの手引』 びんのほつれ 土屋健

共通の体験、それは小唄に組み込まれた言葉の意味を問う質問に対してわからないのも当然であると感じたことでした。

小唄の創作は江戸時代より絶え間なく続いています。そのため生活様式の変化やジェネレーションギャップにより現代人にはわかりにくい言葉が組み込まれた小唄もあります。

さらに本書初版の出版年は1963年(昭和38年)です。そのとき小唄は黄金期を迎えていました。小唄人口は増え、家元は100名を超え、小唄人口は100万にも及んでいたとされいます。小唄人口の増加=小唄初心者の増加ということになります。そのため小唄の歌詞に組み込まれた言葉に疑問を持つ方も多かったと思われます。

この体験を通して吉田忠は小唄専門用語辞典の必要性を感じました。そして株式会社 柏屋楽器店 社長 田中彰の紹介で吉田忠と土屋健が出会い、吉田がこの本を出版したい意向を土屋に相談します。土屋が賛成しこの本が作成される運びとなったのです。

まとめ

この本の内容はとても素晴らしいものですが、より素晴らしいのは制作者の精神です。玄人である吉田忠と土屋健が小唄に組み込まれた言葉の意味を問う質問に直面した際「そんなこともわからないの?」と突き放すことなく、質問者の立場に寄り添ったからこそ本書は完成しました。

お稽古していくうえでの疑問や不安は付き物だと思います。その一つ一つに寄り添って正面からお稽古仲間と向き合える師範になれるように、お手本となる事例として本書の制作秘話を胸に刻みたいです。

参考文献

・小唄ことばの手引(東京邦楽出版社)

・昭和小唄 その三(演劇出版社)

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