【文化探求】小唄塚

神田明神境内の境内の裏側にひっそりと佇む小唄塚。その歴史について調査したら、吉田草紙庵の偉業の大きさを実感しました。

建碑の目的

小唄塚は1956年(昭和31年)3月1日も準古典小唄創始者である吉田草紙庵の偉業を称えるため建立されました。吉田草紙庵は1946年(昭和21年)にこの世を去っているため、亡くなってから10年後に小唄塚が建立されたことになります。

吉田草紙庵は当時の小唄人に広く関りを持ち、芝居小唄というの新たな小唄のジャンルを確立したり、100曲以上の小唄を創作するなど小唄史に大きな影響を残しました。

建碑の年表

小唄塚建碑までの歴史を簡潔にまとめてみました。

草紙庵建碑会 発足

小唄塚建碑のために、草紙庵建碑会が発足し、昭和30年3月27日 旅館山口にて第1回打ち合わせが開催されました。そこで英十三が発起人総代に決定しました。顧問や後援も決定し、小唄塚建碑計画が始動し始めました。

 草紙庵建碑会
・発起人総代 英十三
・顧問 市川三升、宮川曼魚
・後援 邦楽協会、小唄協会、江戸小唄社、芸能通信社

※発起人総代、顧問の面々は生前の吉田草紙庵と交流があり、小唄史にも名を残す名人たちです。

資金集め

昭和30年5月1日から9月末までに一口100円で建碑のための寄付金を募りました。寄付金は全国から集まり、付者 506名により、1,200,500円の寄付金が集まりました。

また、三越劇場で二日に渡り小唄塚建立記念大会が開催され、二日間で計100組が小唄を披露しました。その収入180,000円が建碑のための資金としてあてがわれました。

寄付金と大会の収入を合わせると、その額はなんと1,380,500円にもなります。吉田草紙庵の功績の大きさが反映されているのだと思います。

建碑場所確保と制作

龍角散の藤井得三郎の尽力により、神田明神氏子総代の満場一致で建碑場所が神田明神に決定されました。伝統文化、そして吉田草紙庵にも縁がある場所に建碑を確定することができたのはとても意味があることだと思います。

この頃、いよいよ碑の製作が始まりました。英十三、明石亀三郎(芸大石彫科 講師)が真鶴の石山で碑にする本小松石を選定しました。市川三升が姪の稲延米子に助けられて碑の表面に「小唄塚」の字を竹筆で揮毫しました。市川三升は昭和31年2月1日、すなわち小唄塚建碑のちょうど一カ月前にこの世を去ってしまいます。最晩年の中、一文字一尺五寸四分(約46cm)という大作を書きあげました。

碑裏面には市川三升、宮川曼魚、英十三の俳句を稲延米子が揮毫しました。

 小唄塚と龍角散
昭和期の龍角散の社長は3名いますが、3名とも名前は藤井得三郎でした。
小唄塚建碑のために尽力したのは何代目の藤井得三郎なのだろうかと思い、龍角散にお問合せしたところ、記録は見つからなかったとの回答をいただきました。
しかし建碑場所の交渉をしていた時期が昭和30もしくは31年であるため、当時の社長である二代目藤井得三郎が功労者であるとの考えが自然ではないかと思われます。

建碑式

昭和31年3月1日 13時 参列者約300名を迎えて建碑式が開催されました。吉田草紙庵の長男 吉田一平、孫の吉田敏幸、市川海老蔵の娘治代により除幕の綱が引かれ、英十三が挨拶をしました。神田消防組約30名の鳶頭によって木遣りが唄われた記録もあるため、とても賑やかな建碑式だったことが予測されます。

移転

小唄塚は神田明神内の魚河岸水神社の脇から裏参道脇・納札碑の隣に移動しました。

↓神田明神公式Facebookにおける小唄塚移動のお知らせ

神田明神
小唄塚移動のお知らせ 記念の一つ、小唄塚、小唄作詞塚ほか記念碑5つが、魚河岸水神社脇より裏参道脇・納札碑の隣に移動いたしました。 小唄塚とは...

現在は昭和62年に制作された小唄作詞塚や小唄顕彰燈などの記念碑と共に裏参道を見守っています。

小唄塚周辺の記念碑たち
小唄の作詞作曲家の名前が刻まれた碑

まとめ

吉田草紙庵は小唄界に大きな影響をもたらした重要人物として私も慕っていました。

今回小唄塚の調査をしたことによって、彼の功績を称えていた先人がこんなにもいたことがわかりとても嬉しい気持ちになりました。

神田明神にお立ちよりの際は、小唄塚を見て歴史を感じてみてください。

参考文献・HP

・龍角散HP
・昭和小唄 その三(演劇出版社)
・邦楽百科事典 雅楽から民謡まで(株式会社 音楽之友社)

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