【人物探求】岩槻三江

地元、安城の民謡を学ぶ中、作詞作曲欄でよく見る名前があると気づきました。岩槻三江、彼はどんな人物だったのだろう、どんな思いでこの地方の民謡を制作したのだろうと思い、探求してみました。

すると、彼の本業での功績や唄にかける想いが見えてきました。

岩槻三江】
・本名 岩槻信治(いわつきのぶじ)
・岡崎市中園町の生まれ
・愛知県農林學校(現 安城農林高校)出身
・愛知県農事試験場にて育種家として活躍
 稲の大物品種を作る
 →稲作の神様と敬慕される
・趣味は笛、太鼓、三味線
・謡曲はプロレベル

西暦元号年齢できごと備考
1889明治2208月30日 愛知県碧海郡長瀬村中園(現 岡崎市中園町)に生まれる
1906明治3917,18愛知県立農林學校(現 安城農林高校)を卒業以降43年間毎日自宅から8キロ自転車で通う
母校 江西高等小学校の教員になるが、農林學校校長 山崎延吉の勧めで12月に愛知農試に採用される
1911明治44大阪府の農事試験場畿内支場に赴き、2週間人工交配の実施実験を受けるメンデルの法則再発見
帰場直後に施設もないところで交配を試演し全て成功する彼の品種改良方法は当時としては型破り
1925大正13安城農芸研究会より雑誌『安城農報』が発行される安城農芸研究会は愛知県農業試験場の技師たちの集まり
岩槻も『安城農報』の編集に関るが、いつから関わっていたかは不明
1926大正14愛壌会を立ち上げる安城農林学校同窓会より雑誌『流芳』が発行され、岩槻もこの編集に関わる(関り始めた時期は不明)
1926大正15種芸部主任となる
1927昭和2愛嬢会を発展させた土地愛嬢連盟の構想をする
1928昭和3専門書『稲作実際論』刊行
1932昭和7専門書『農民叢書第二篇 米作篇』刊行
1935昭和10専門書『稲作改良精説』刊行
1937昭和12専門書『食用作物相談』刊行
1940昭和15愛知県から表彰される
1941昭和16愛知県から表彰される
富民協曾、大日本農会から表彰される
1942昭和17農事研究及び指導の功績を称えられ、高松宮家から有栖川宮康生資金による硯箱を与えられた
1948昭和2356愛知県から表彰される
5月9日 種芸主任在任中に急逝病に倒れても病室に稲を持ち込んで系統選抜を続け、ときどき自作の安城小唄も口ずさんでいた
葬儀は農民葬で執り行われる

育種家 岩槻信治

江南小学校を卒業した岩槻さんがは、当時エリート校だった愛知県農林學校(現 安城農林高校)に入学します。その際に年齢が一つ足りなかったため、卒業証書を書き換えて入学したそうです。

愛知県農林學校を主席で卒業した岩槻さんは、母校である江南小学校で教鞭を執っていました。しかし当時の愛知県農林學校の校長であり、日本デンマークの礎を築いた人物 山崎延吉さんの勧めで愛知県農事試験場に就職します。

当時、愛知県農事試験場では稲の品種改良を行っていました。岩槻さんもそこで稲の品種改良に携わるようになります。

岩槻さんは大阪府の農事試験場畿内支場に赴き、人工交配の実施実験のノウハウを学びます。安城に戻った後、早速学びを実践にうつしたところ、すべての試演が成功しました。 その後も稲の新品種育成に力を注ぎました。彼が育成した稲の新品種は30余種と言われています。

小六月追記メモ~当時の愛知県の稲作事情~

当時愛知県で多く栽培されていた「神力」という品種の稲はイモチ病に弱く、増収を目標とする多肥栽培には向いていませんでした。

そのため、イモチ病に強い新品種が求められました。県下の様々な品種の稲が集められ、とうとうイモチ病に強い「栄神力」「平和糯」等の品種が出来上がりました。 その後も改良は続けられ、岩槻さんは「愛知旭」、「千本旭」、「金南風(きんまぜ)」、「双葉」(イモチ病に強い)、「黄玉」(白葉枯れ病抵抗性)などの品種を生み出します。彼の実績のおかげで稲の品種改良において愛知県は独自の地歩を固めました。また、育種家として多くの後継者を育成し、そのノウハウを新しい世代に託しました。彼の後継者たちもまた育種の世界で活躍しました。

編集者 岩槻賢治

岩槻さんは新品種の育成だけでなく、出版物を発行して農業に貢献しました。安城農林學校同窓会が発行した雑誌「流芳」、愛知県農事試験場の技師たちによって発行していた月刊誌「安城農報」(後に「農芸」に改題)の編集は岩槻さんが担っていました。

この二つの雑誌にかける想いは大きく、ときには自分で記事を書いたり、泊まり込みで編集したこともあったそうです。

その他にも自著の農業技術専門書を残しています。

小六月追記メモ~日本デンマークの出版物~

雑誌「流芳」は同窓会内部の雑誌という枠に留まりませんでした。この雑誌は安城町、岡崎市、豊橋市、名古屋市の一部書店にも置かれ、同窓会外部の方の手に渡ることもありました。その人気の秘密は愛知県農林學校の校長を辞していた山崎延吉が毎号「時事短評」などを執筆していたからと言われています。

また、農業の啓もう・普及を目的とした「安城農報」も全国に読者をもつ人気の月刊誌となりました。

岩槻さんが手掛けた2つの雑誌は多くの人の目に触れました。

文化人 岩槻三江

そんな稲作の神様の趣味は三味線、太鼓、笛でした。謡曲ではプロレベルの技術を持ち合わせていました。

そして岩槻三江というペンネームを使って民謡の作詞作曲活動もしました。手掛けた曲の数は150とも160とも200とも言われています。時には振付までしていたそうです。

彼が手掛ける民謡は新民謡という分類の音楽でした。新民謡とは伝統的な民謡とは別の時代に即した民謡を作ろうという新民謡運動に基づいた民謡です。中山晋平、野口雨情などが新民謡運動の中心にいました。

岩槻さんの民謡の中にはレコード化されたもの、放送局で流されたもの、依頼を受けて制作したものもありました。本業の影響を受けたためか、彼の音楽は農業や地元の1次産業を題材にした民謡が多いように思われます。

【確認できている岩崎三江の作品】
安城野原節 作詞(作曲してる説もある)
河野小唄 作詞作曲
たごさく音頭 作詞作曲
安城の唄 作詞作曲
安城田植え唄 戯作
蜂蜜小唄 作者(昭和8年制作愛知県の養蜂組合のために制作)
宝飯郡御油音頭(昭和8年名古屋放送局から放送される)
西尾茶摘唄(昭和6年レコードとなる)
碧海音頭(昭和7年)
小六月追記メモ~岩槻さんの地元愛~

彼が手掛けた農業技術専門書の特徴として、様々な制約を負った農民が、一般的な努力でできる合理的、科学的な増収方法をあくまで西三河の条件に即して説いているという特徴があります。そして民謡制作時のペンネーム 三江も三河からきています。

公私共に三河を大切にしていることから、地元愛が大きい方なのだと思いました。

まとめ

岩槻さんって唄好きな農家のおじさんなのかなと思っていました。しかし実際は稲作の神様で趣味の音楽も極めた方でとても驚きました。

地元の歴史と文化に貢献した偉人ですが、今回の調査をするまで彼のことは全く知りませんでした。今後の演奏会では岩槻さんの曲も取り上げ、もっといろんな方に彼の音楽をお届けしたいです。

情報提供してくださった岩槻記念館及び安城歴史博物館の担当者さま、ありがとうございました。

参考文献

・農業共済新聞(1997年10月8日)
・市制45周年記念特別展 日本デンマークの姿 〜大正・昭和の農村振興〜(安城歴史博物館)
・新編安城市史3 通史編 近代(安城市史編集委員会)

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