【作品探求】筆の鞘

1897(明治30)年頃 制作
作詞 不明(作曲者の贔屓筋の客と考えられている)
作曲 三世清元斎兵衛(即興で作曲)

筆のかさ  焚いて待つの 蚊遣火に
さっと吹きしむ 涼風が 磯打つ汐の すいに
女波男波の女夫仲みょうとなか 寝付かれるは
なお恋しさに 寝かさぬ時を 思いやる

舞台は海辺に近い家。ここで女性が男性を待っています。筆の鞘を焚いてみたけれど男性がやって来る気配はありません。女性は寝付くこともできず、ただ波の音を聴くことしかできない。といったしめやかで美しい夏の唄です。

この小唄を初めて知ったのは小学生のころでした。「昔の人は筆の(かさ)を燃やして蚊取り線香の代わりにしていたんだよ。」と言われ、鉛筆のキャップを燃やすイメージをしたことを覚えています。

今回はこの小唄の意味・音楽的特徴、元になった俳句、歌詞に盛り込まれた江戸時代の蚊やりの習慣をお伝えします。

製作背景

この曲は、1897(明治30) 年頃に土蔵相模という品川の妓楼で作られたと言われています。曲は三世清元斎兵衛、作詞は土蔵相模の客で、作曲者の贔屓筋の客と考えられています。三世清元斎兵衛は作詞者の希望に応えて即興でこの曲の作曲をました。

芳樹という尼さんが作った「筆のかさ 焚いて待つ夜の 蚊遣かな」という句を唄い出しに使用しています。

三世清元斎兵衛の逸話

この曲には三世清元斎兵衛の逸話があります。本手(=主旋律)だけ作った斎兵衛は、品川から浅草の自宅に向けて歩きながら替手(=副旋律)を作りました。すると自宅に着く前に替手ができあがったため、斎兵衛は品川へ引き返します。土蔵相模に着くと寝付いていた作詞者を叩き起こし、替手ができたことを報告します。作詞者は喜んで朝方から替手を聴いたといいます。

芸を心から愛していた作詞者と斎兵衛だからこそこのようなストーリーが残ったのだなと思います。

筆の鞘を焚く

江戸時代、文字を書くための道具として筆は必需品でした。筆を購入したとき、筆先の保護のためにかぶせる竹筒が必ず付属していました。これを筆の鞘と言います。

そして筆を買い替える毎にこれがついてくるため、筆の鞘は手元に溜まる一方でした。そのため、干した蜜柑の皮と一緒に筆の鞘を焚いて虫よけとしていました。

現代でいう蚊取り線香のようなものですね。

小六月追記メモ~女波男波~

・男波 高低のある波のうちの高い方。
・女波 高低のある波のうちの低い方。

この単語を調べて、たしかに波はいつも同じ高さではなく、高い波と低い波があったなと納得しました。一人で寂しさを感じている主人公の女性の心情とは裏腹に「〽女波男波の女夫仲」とはなかなか憎い歌詞だなと感心しました。

音楽的特徴

この唄の後半「〽寝付かれる夜は なお恋しさに 寝かさぬ時を 思いやる」の部分の節回し(=唄い方)には薗八節の技術が組み込まれています。

薗八節(別称 宮園節)は京都で生まれ、江戸で継承された浄瑠璃の流派で、しめやかで哀艶な曲調が特徴とされています。作曲者 三世清元斎兵衛が本業とする清元節では色っぽい場面に江戸端唄を挿入する手段がよく用いられますが、小唄の色っぽい場面に薗八節が挿入されたのは初めてであると考えられています。

まとめ

実業家であり小唄研究家でもある英十三はこの唄について以下のような記述を残しました。

今楢此唄は良く唱はれる唄で、文句も曲も共に良い唄だと思ひます。

江戸小唄の話』英 十三

他にもこの曲には多くの好評が寄せられているため、明治の小唄の代表作と言っても過言ではないと思います。江戸時代の蚊やりの習慣と夏の情景を感じられる素敵な曲なので、季節の曲として演奏会で発表したいなと思いました。

参考文献

・江戸小唄の話(文川堂書房)
・小唄解説(柏屋出版部)
・小唄鑑賞 増補版(演劇出版社)
・小唄稽古本 都の華(法木書店)
・小唄新集 増補改訂(柏屋出版部)
・精選版 日本国語大辞典(小学館国語辞典編集部)
・邦楽百科事典 雅楽から民謡まで(株式会社 音楽之友社)
・明鏡国語辞典 第二版(大修館書店)

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