歌詞は『昭和小唄 その一』より引用
1933(昭和8)年9月 田端の自笑軒にて開曲
作詞 英十三
作曲 吉田草紙庵
置き添うる 葉末の露の 玉棚に 灯せばうつる 草の影
蚊遣の煙の しどろにも 植えて侘びしき 萩の庭
忍ぶにあらき 生垣や 恨みは葛の 葉がくれに 物云う顔の 面やせて
差し込む月の 影淡く 透いて朧の 蚊帳の中
三遊亭円朝の怪談が原作となり、歌舞伎化・映画化されるほどの人気を博す「三大怪談」の一つ 牡丹燈籠。それを原作とした小唄を制作した昭和の名人がいました。吉田草紙庵と英十三です。
二人はとても仲が良く、十三は草紙庵亡き後『草紙庵の小唄解説集』という本を書いています。また、草紙庵の自著である『小唄作曲に就て』で本人もこの曲について記述しています。
二人の想いがこもったこの小唄について解説していきたいと思います。
原作とあらすじ
小唄 牡丹燈籠は三遊亭円朝の「怪談 牡丹燈籠」を原作とした小唄です。
この怪談は中国の怪異小説『剪燈新話(せんとうしんわ)』のなかの『牡丹燈記』に着想を得ました。それに円朝が牛込の旗本の家に起こった事実譚を加えてできた創作が「怪談 牡丹燈籠」です。
ちなみに円朝が制作した落語「怪談 牡丹燈籠」に三世河竹新七が脚色を加えてできあがったのが歌舞伎「怪談 牡丹燈籠」です。
怪談 牡丹燈籠 あらすじ(一部抜粋)
小唄の原作となった部分のストーリーは以下の通りです。
① 飯島お露が浪人 荻原新三郎に恋焦がれるあまり焦死する。
② 亡霊となったお露は乳母 お米の亡霊と共に牡丹燈籠を持って毎晩新三郎の元に通うため、新三郎は痩せ細っていく。
③ 新幡随院の方丈(住職) 良石和尚の加持により、新三郎宅の門口に護符を貼ったためお露とお米は新三郎の元に通えなくなる。
④ 困ったお露は新三郎の隣家に住む伴蔵、お峰夫婦に百両の金を与えて護符を剝がしてもらう。
⑤ 新三郎は亡霊に殺されてしまう。
作詞作曲者の声
小唄 牡丹燈籠の作詞者 英十三と作曲者 吉田草紙庵は両者とも本を出版しています。さらに牡丹燈籠に関する記述が双方の出版物から確認できました。
今回はその資料から得た情報をベースに小唄 牡丹燈籠の制作過程を綴ります。
『小唄作曲に就て』
吉田草紙庵が自作の曲について語った本。
\この本の詳細はこちら/
『草紙庵の小唄解説集』
吉田草紙庵の功績を記録するため、監修の磯部東籬と英十三が中心となり制作された。
作曲経緯
草紙庵宅にて草紙庵と十三が幽霊の小唄について話をしていました。そして十三の「牡丹燈籠を小唄にしてみたら」という発言がきっかけで小唄 牡丹燈籠の制作が始まります。
「一体、幽霊の小唄は古くからあったものかね」と私(英 十三)がたづねますと「へえ、まあご承知の〽青柳の蔭に誰やら…。[中略]清元 岸柳朧人影に使った小唄ですが、あれなんかが幽霊小唄といわれていますが、なあにあんまりスゴ味はありませんよ。」という答です。
私はふと思いついて「どうだろう、一つ牡丹燈籠を小唄にしてみたらー」というと「いや、そいつあ面白がしよう」と草紙庵は大乗り気でぜひ書いて下さいというのでした。
『草紙庵の小唄解説集』(江戸小唄社より)
英十三の作詞
家に帰った十三はさっそく作詞にとりかかります。苦心の末、一か月で詞を書きあげ、草紙庵に届けました。
それではと約束してその日は別れたのですが、さて家にかえって静かに考えてみると、これがなかなかの難物で、とんだ約束をしてしまったものだと後悔しました。[中略]ですが引きうけたからにはなんとかまとめてみたいと、一と月ばかりして、やっと書きあげて草紙庵にとどけたのがこの小唄でした。
『草紙庵の小唄解説集』(江戸小唄社より)
小六月追記メモ~キーワード 葛の葉~
牡丹燈籠の詞の中に葛の葉が登場しますが、これには意味があります。
葛の葉は風で翻って裏が見える→「裏見」→「恨み」
すなわち葛の葉はお露の恨みを表しているのです。
英十三の注文
十三は作曲にとりかかる草紙庵にとある注文をします。
それは「あえて虫の音、鐘の音、駒下駄、燈籠といったお定まりの文句を詞に加えなかったので、作曲で凄味を出してほしい」といったものでした。
小唄にも用いやすく、効率的に牡丹燈籠の世界観を表せるこれらの文句をあえて入れなかったのは、十三が草紙庵の作曲に期待していたからでしょう。
また直接的な表現を避けることにより幽霊のおどろおどろしい透明感がある詞になっています。
吉田草紙庵の作曲準備
作曲にあたり、まず草紙庵は原作者である三遊亭円朝の墓参りに行きました。そして牡丹燈籠の主人公であるお露の墓、すなわち飯島家の墓にお参りに行きました。
ただし、牡丹燈籠は完全な実話ではないため、飯島家の墓は草紙庵が仮定したものです。新幡随院 法受寺に無縁となっていたようですが、その寺が廃寺になった後は本郷朝香町清林寺に移されたそうです。
さらには新三郎の家の場所も仮定し、法受寺を抜け出した幽霊が新三郎の家を訪れたという前提で作曲することにしました。 草紙庵は自宅の軒に燈籠を掲げて、夜中に電気を消し、牡丹燈籠の世界を演出した空間で作曲しました。原作を大切にする草紙庵らしい行動ですが、それでも本人はまだ準備が足りないと感じでいたのが自著から読み取れます。
燈籠を軒にかゝげて、夜中に電氣を消しては幽霊に歩いて呉れ、歩いて呉れと云ひつゝ、三味線を持って手附けを工夫しました。
全く圓朝師の苦心を思ふと、寄せ集めで作るのは如何にも亂暴だと思ひました。
『小唄作曲に就て』(法木書店より)
一方、十三及び少し後の世代に活躍した小唄人 土屋健は草紙庵の一連の行動に感心していました。
「牡丹燈籠」の作曲ができたと、草紙庵から知らせがあったのは八月の末、私(英十三)はさっそくゆきましたが、けいこ場の様子がいつのまにやらガラリとかわっているのにびっくりしました。
[中略]中庭の入り口には「禁芸術売買」ときざんである立石があり、このまわりには、下草、中庭にはハギ、キキョウ、女郎花などの秋草をうえこみ、けいこ場のひさしの下には、白ばりの大きな玉菊燈籠がつってあるのでした。座敷には、草紙庵が首抜模様の浴衣をきて、ポツンポツン三味線をひいている。
どうしても一切が牡丹燈籠にちなむ飾りつけなのです。
『草紙庵の小唄解説集』(江戸小唄社より)
節附けにあたつては、眞夏の夜半をえらび、電燈を消して、まつ暗な中で幽霊と話をする意氣で、夜毎手附の工夫をこらした苦心談を、うかがつて、感心したことがありました。
『随筆 小唄おぼえ書き』(金澤書店より)
開曲
この時代は新作小唄ができると料理屋さんに集まり、食事の後に場が温まったところで新曲を発表するイベントが多々行われてきました。これを「開曲」または「ひらき」と言います。
1933(昭和8)年9月13日、牡丹燈籠は自笑軒という場所で開曲されることとなりました。
このときも草紙庵は三遊亭円朝と飯島家の墓をお参りしてから開曲を行いたいといい、開曲の席に立ち会う人全員で墓参りに行きました。もちろん十三もそれに参加した一人でした。
午後三時に、ひらき(開曲)の参加者は日本橋の「葵」という待合に集まり、二台の自動車に分乗して、草紙庵を案内役に出かけました。
不忍池を左にそって、やがて車がとまったのは団子坂の下を東に曲がった横丁で、その右側の古寺が、お露の墓のあったという寺なのだそうです。
[中略]草紙庵は、し細らしく「これがね、昔はこの辺に小川があって、不忍池の方へ流れていたんだそうですが、今は暗渠になっちまったといいます。川べりにはもちろんぼうぼうと草もしげっていたのでしよう。ここのお露さんの墓から夜な夜な魂が抜けだして、谷中上三崎の新三郎の家の方へ、ふらふら通ったというわけでさあ」と、まるで見てでもいたように、真顔になって一同に話すのでした。
『草紙庵の小唄解説集』(江戸小唄社より)
開曲での演奏は唄を新橋の姫松、糸(三味線の演奏)を豊島とよがつとめました。
この両名には草紙庵が事前に稽古をつけていました。草紙庵曰く難しい曲に仕上がったため開曲時の演奏は誰でもよかったわけではないとのことです。両名の実力を信頼してのご指名だったのだと思われます。
まとめ
開曲の席にて演奏が終わった後、十三が便箋に2つの句を書いて草紙庵に見せました。
灯籠に もののけはいや 庭の隅
灯籠や 袖もおぼろの 二人づれ
それに対して草紙庵は以下の句を返しました。
蚊帳に来て 鳴く聲さみし きりぎりす
互いに苦心して制作したこの曲への思いはひとしおだったのだろうと思います。牡丹燈籠は二人の関係性があったからこそできた名曲なのです。
また、詳しい記述はできませんでしたが、この曲も草紙庵の作曲なので一つ一つの音や唄い方に意味があります。作曲への情熱を垣間見れるため、ぜひ資料を手に取っていただきたいです。
参考文献
・小唄作曲に就て(法木書店)
・芝居小唄(演劇出版社)
・昭和小唄 その一(演劇出版社)
・随筆 小唄おぼえ書き(金澤書店)
・草紙庵の小唄解説集(江戸小唄社)
・ブリタニカ国際百科事典小項目電子辞書版
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