【作品探求】かまわぬ

歌詞は『昭和小唄 その三』より引用
1966(昭和41)年2月
作詞 市川翠扇(三代目)
作曲 四世清元梅吉

なぜに世間は こうもうるさい もんだろうかね ほっといて
いいじゃないの いいじゃないの 女だって 女だって
女のしあわせ 男なんかに わかるもんか
もしも男に 生まれていたら 「つがもねえ」 なんてとんでもない事
わたしゃ恥ずかしい 気性も荒磯 家の筋 何と云われたって かまいません
かまわぬ かまわぬ

この曲を初めて聴いたとき、とても衝撃的でした。

小唄の中での女性は恋に焦がれて、悋気や寂しさに心を奪われがちです。どちらかと言うと女性が弱い立場に置かれやすいのですが、この曲の主人公はそんなことないのです。
ロックのような歌詞と洒脱な構成が素敵ですぐに好きになりました。

そんな昭和の名曲 かまわぬ は作詞者の素敵な自己肯定感が曲に大きく反映されています。
そこで、今回は作詞者 三代目市川翠扇の経歴と共にこの唄を解説したいと思います。

三代目市川翠扇

この曲の作詞者三代目市川翠扇(本名:堀越喜久栄)は、1913(大正2)年 九世團十郎の孫としてこの世に生を受けます。

つまり、男として生まれてきていたら團十郎の名を継いでいた身なのです。
そのためか、幼少期は「坊や」と呼ばれていたそうです。

多彩な芸歴

1929(昭和4)年 歌舞伎座にて歌舞伎『戻橋恋の角文字』に禿役で出演します。このとき市川紅梅の名前を名乗りました。

しかしその後は新派劇の舞台にのることが多くなります。『金色夜叉』『二筋道』などに出演し、いつしか花柳章太郎や水谷八重子といった新派劇を代表する俳優たちとも親交を持つようになります。

それだけに留まらず、黎明期のテレビや映画にも多数出演します。

新派劇を支える

1948(昭和23)年 正式に新派劇の俳優として活動し始めます。1957(昭和32)年には伯母の名である翠扇を襲名しました。

花柳章太郎没後は、水谷八重子をたすけ新派の副座長格になります。

実力

経歴からもわかるとおり、かなりの実力者で高い評価を得ています。芸カンが鋭く、セリフ覚えが早い。声帯模写(声真似)をすると顔まで似るなどの記録が残っています。

そして小唄、小唄振り(小唄に合わせて踊る日本舞踊)も得意としています。そんな翠扇が作詞したからか、小唄 かまわぬも小唄振りを意識した曲調に仕上がっています。

小唄 かまわぬ 解説

かまわぬ
市川家のかまわぬの模様

かまわぬとは、鎌と輪とぬからできた市川家の模様に由来します。

芸達者であったこと、小唄 かまわぬ 制作時(53歳)に独身であったことから、翠扇は世間からいろんな言葉をかけられていたことと思われます。

「男だったらお前が團十郎だったろうに」「いい人はいないのか」歌詞冒頭のぼやきはそのような声に対する翠扇の気持ちなのでしょう。ただ翠扇は底抜けに明るい性格だったためうんざりしていたというよりも、笑い飛ばしていたのかもしれません。

そして歌詞の中には翠扇の生家である市川家の影が巧みに隠されています。

つがもねえ

この言葉は小唄 かまわぬのキーワードとも言えます。

「つがもねえ」という言葉は歌舞伎十八番や荒事の狂言で台詞として頻出します。たわいない、馬鹿馬鹿しいという意味を持ちます。

今回の場合は歌舞伎十八番 助六由縁江戸桜 の主人公 助六の台詞の引用と考えられます。

助六は團十郎の当たり役なので、翠扇も男だった場合は歌舞伎役者として舞台上でこの言葉を言っていたことでしょう。そんな言葉をあえて引用し、女である自分を肯定する詞がとても秀逸です。

気性も荒磯

伝統模様 荒磯

この部分は伝統模様 荒磯にかかっています。

鯉が滝を上って龍になる故事に由来する伝統模様で、市川家好みの勇壮な柄です。

まとめ

詞の内容から翠扇は男社会である梨園の家系に女性として生まれた自分に誇りをもっているように思えました。

今でこそ多様性が声高に唱えられていますが、彼女が生きた時代はそうではなかったでしょうし、ただでさえ人にどうこう言われたら傷ついてしまうものです。

気持ちが落ち込んでしまってもおかしくないようなことを粋な小唄にして明るく表現する翠扇は、前向きで明るくて芸達者な方だったんだろうなと思いました。

私もいつかこんな唄が書けるような人になりたいです。

参考文献

・昭和小唄 その三(演劇出版社)
・広辞苑 第六版(岩波書店)
・歌舞伎十八番集(株式会社 講談社)

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