【作品探求】吉三節分

歌詞は『昭和小唄 その一』より引用
1930(昭和5)年2月 天神下の料亭 都鳥にて開曲
立案 岡野知十
作詞 田島断
作曲 吉田草紙庵

月も朧に白魚の かがりも霞む春のに 冷たい風もほろ酔いの 心持よくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で 棹の雫か濡れ手で粟
“おん厄払いましょう厄落とし” “ほんに今夜は節分か こいつぁ春から” 縁起がいいわえ

昭和の巨匠 吉田草紙庵が手掛けた代表的な歌舞伎小唄です。女性視点の小唄が多い中、男性が主人公となる鉄火なこの唄は現在でも人気を博しています。今回は吉三節分の原作となる歌舞伎、作詞作曲工程、制作時のエピソードをご紹介します。

歌舞伎 三人吉三廓初買

歌舞伎小唄に分類される小唄は、その名の通り歌舞伎が原作となっております。吉三節分の原作は三人吉三廓初買です。

三人吉三廓初買
・世話物
・初演 1860年(万延元年) 市村座にて
・河竹黙阿弥作
・現在は三人吉三のくだりだけ上演上演するため、題名も「三人吉三巴白波」となっている

大川端庚申塚の場

吉三節分で唄われる場面は2幕目の大川端庚申塚の場と言われる見せ場です。小唄の原作となった部分のストーリーは以下の通りです。

①辻君(夜鷹)のおとせが柳原で拾った百両のお金を持って両国川岸(大川庚申塚)を通りかかる
おとせは百両の持ち主である小道具商木屋の手代 十三郎に返そうとしていた

②島田鬘に振り袖姿(お七の衣装)の旅役者 お嬢吉三が道を聞くふりをして財布をひったくり、おとせを大川に蹴落とす
百本杭(川岸を保護するために大川に打たれていた杭)に足をかけて厄払いの台詞

この後、浪人であるお坊吉三がやってきて「百両を貸してほしい」と言います。それがきっかけでお嬢とお坊が立ち廻りになると、所化(坊主)あがりのお坊吉三が仲介し、三人の吉三が揃います。

この小唄は、お嬢吉三がおとせを大川(隅田川)に落とした後に発する「厄払い」と呼ばれる七五調のセリフを詰めて作詞をしています。

三人吉三廓初買 厄払い
月も朧に白魚の 篝も霞む春の空 冷てえ風も微酔ほろよいに 心持よくうかうかと 浮かれ烏のただ一羽
ねぐらへ帰る川端で 棹の雫か濡手で粟 思いがけなく手にる百両
「おん厄払いましょか、厄落し」(舞台の袖から厄払いの声が聞こえる) ほんに今夜は節分か
西の海より川の中 落ちた夜鷹よたかは厄落し 豆沢山に一文の 銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起がいいわえ
小六月追記メモ~節分の厄払い~

旧暦では12月30日が節分、翌1月1日は立春でした。

江戸時代、節分の夜には厄払いと言われる職業の方が活躍しました。籠を背負い、手ぬぐいで顔を包み、扇子を持って「御厄払いましょう厄落とし」と言って門に立ち、金や豆を貰っていたそうです。

歌舞伎では七五調のリズミカルなセリフを「厄払い」といいますが、当時活躍していた厄払いの方が使っていた言葉に似ているためそのように言われるようになったとされています。

小六月追記メモ~白魚と春~

三人吉三廓初買 厄払いのセリフの冒頭 〽月も朧に白魚の 篝も霞む春の空

これは三人吉三廓初買の舞台となった大川端(現在の隅田川)で行われていた白魚漁に関係します。白魚漁は鉄の籠に柱をつけて船に立て、籠の中で火を焚いて行われました。その火の灯りを頼りに漁をしていたのです。

また、旧暦では1月から春となります。冬の冴えた空気が少し春めいて、白魚漁の篝火がかすんで見える情景を唄い、季節感を演出しているのです。

作曲工程

名台詞をぎゅっとまとめた詞に糸(唄のメロディーと三味線の旋律)をつけたのは、巨匠 吉田草紙庵でした。斬新な小唄を世に出していた草紙庵ですが、吉三節分でも斬新な演出を取り入れます。

吉三節分 斬新な点
・男性主人公である
・従来の唄う小唄から一転して「語る小唄」という仕様になっている
・芝居の台詞、下座音楽、舞台の間が組み込まれている

草紙庵の小唄愛

吉田草紙庵は自著『小唄作曲に就て』でこの曲について語っています。

吉田草紙庵の自著『小唄作曲に就て』(法木書店)

なんと曲の冒頭から最後まで唄い方や弾き方まで考えて作曲しているのです。作曲者の小唄への愛と唄い手、弾き手への希望が読み取れる名著なのでとてもおすすめです。

「心持よくうか〱と」(という歌詞のところでは)此心持よくといふのを唄の方は本當に心持よく唄つては不可ないのです。

[中略]其心の底では何れも人情を持つて居て、惡い事をしたあとでは必ず「ァ、惡い事は出来ぬぇものだ」とうふ心持で下から出て唄ひます、之を冴えて唄つたらかえって感じが出ません。

『小唄作曲に就て』(法木書店より)

↓『小唄作曲に就て』の詳細はこちら

評価

当時、この曲の評価は小唄人と演劇人で真っ二つに割れました。

小唄人の評価

この曲は小唄人には不評でした。従来の小唄と比べて斬新な演出が多かったため、受け入れられなかったのかもしれません。

作詞者 吉田草紙庵はこんなエピソードを残しています。銀座の松喜というお店でご飯を食べているときに隣の座敷からこの曲の悪口を聞きました。「草紙庵て奴あ小唄の趣味を毀す奴だ。小唄にセリフを入れるなんてもってのほかだ」とのことでした。

この出来事に対して、草紙庵は腹を立てませんでした。むしろ世間への反響があるな、手ごたえがあったぞと喜んだそうです。

演劇人の評価

一方演劇人の評価は非常に高いものでした。特に当時危機に瀕していた歌舞伎界に歓迎されました。

そして歌舞伎を救う手立てとして草紙庵の歌舞伎小唄を採用し、吉三節分も対象になりました。そして市川三升、守田勘弥、田島断、三木重太郎、小村雪岱、伊藤深水、寺門霞十、岡野知十に相談し、新橋、柳橋、赤坂、葭町等の花柳界で吉三節分をはやらせる努力をしたのです。

レコード化とヒット

演劇人たちの努力もあって、吉三節分はレコード化を果たします。

小唄の一門である小唄派の方、当時人気を博した鶯芸妓の市丸、日本橋芸妓である姫松などさまざまな方によってレコードに吹き込まれました。

吉三節分 レコードリスト
・小唄幸兵衛、小唄幸子、小唄幸美葉(バルボホン)
・市丸、雛鶴(春日とよ雅)、朝居丸子、佐藤章子、姫松 (ビクター)

このヒットに対して草紙庵は「原作者黙阿弥の力が偉大であるため」と評し、黙阿弥の墓にお参りに行きました。

吉三節分 関連句
櫓拍子や 大川端の 月おぼろ (岡野知十 吉三節分開曲の席にて)
大川に 小唄ながれて 春の宵 (土休(=吉田草紙庵) 『小唄作曲に就て』吉三節分の結びにて)

まとめ

吉三節分は吉田草紙庵はもちろん、立案の岡野知十、作詞者の田島断が演劇の教養を持っていたからこそ成せた歌舞伎小唄です。

今なお人気を博す唄の陰には江戸文化への理解や原作へのリスペクト、そして多くの方の努力がありました。より大切にこの唄を唄っていきたいと思いました。

参考文献

・小唄作曲に就て(法木書店)
・芝居小唄(演劇出版社)
・昭和小唄 その一(演劇出版社)

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